2013/10/27放送「勉強し続ける社会」

文化系トークラジオ Life: 20131027「勉強し続ける社会」
http://www.tbsradio.jp/life/20131027/




・Part3で「80年代半ばから知的なものはかっこ悪いとされるようになった」
とんねるず(DQNヤンキー)みたいなものが主流になった」っていうくだり。
世の中ではそういう流れがあったのかーっていうのと
今も全然その残り香はあるなーと。
いわゆるウェーーーイwwwwwwというかいわゆる「リア充」じゃん。


・Part4終盤の「教養とか基礎ないと〜」「価値を出せ結果を出せが先に来る。けど何かを繋ぎ合わせてプレゼンしようにも基礎がない→やばい」
みたいなのはあるなと。
今知り合いにそういう状況の奴がいて、アウトプットの機会をやたら求められるんだけど一番基本的な事を教えてもらえないままチャレンジせざるを得なくて、なおかつ出した後で必要以上にバッシングされちゃう感じ。
で、俺はここに関しては単純に基礎がないならできるようになるまで教えるしかなくね?と思ってるところ。


例えば「文を書く」ってことでも感性とかセンスだけで書くかのようなイメージが持たれがちだけど、
始め方・内容の展開のもっていきかた・締め方
とか説明のできる体系立てられた技術があって、本来ならチャートみたいに共通して人にインストールできる構造とか回路がある。
で、それを自分の中にインストールした後でそこに感性とかネタとかセンスって呼ばれるものを流し込む。

中学校とかまでだとそこがすごく軽視されてるもんだから書けるようになる前に酷評されてそのまま苦手意識を植え付けられちゃうのってあるように感じる。
体育とかも練習ほとんどなしでいきなりやらされてただただ苦痛だったみたいな話はよく聞くし、
俺は図工とか美術とかは特にそれだった。



・Part7の中盤の理系文系話。
「理系は概念をわかった後で自分で計算式を自分で解けるようになんなきゃ意味がない。腕立て1000回の世界。でも俺はとりあえず概念が知りたい」
っていうくだりはすげーわかる。
今まで学校でやってた勉強ってそういうのがすごい多くて、「とりあえず知識として入れる」けど「拾った知識を使って考える」にまでいかない。
レポートでも知識を並べ替えておしまい、っていうのがだいたい。
ただ概念を知るのは単純に面白い。


ゼミとかみたいに参加型だと貰った知識と自分が持ってる回路で何かを捻り出したりする機会がちゃんとあるんだけど、それがなかなか無いんだよなー。
そもそもその回路とかを意識的にインストールさせてもらえないしアウトプットの機会もないからインストールされたかの確認もできない。
んで、授業がその受けるだけの形式が多いもんだから面白さを感じとれる前に入門編だけで終わっちゃう。


俺は後輩に何か教えたりする時とかってそこの現在地確認をすげー重視してて、
「こっちもわかったつもりになりたくないのでわからないとこはお互いガンガン正直に言おう」って前置きを言うことをよくやる。
ある程度教えたら確認テストみたいなのをやるんだけど、「Cまでできれば自動的にAとBはできてることになる」っていうチェックのやり方をよく使う。
(これよく考えたらステップアップ式だから理系のやり方なのかな)
だいたいの場合はCができてない→でもどこが欠けた結果Cまでできてないのか解説がない事が多くて、それは次にも繋がらないし本人のやる気にも関わるのでまずい。
だからCまでできた時に(そうでなくても)AとBもできてたっていうことを解説しながら褒めておくことがすごい大事っぽいなと感じてきてる。


ほかも色々あるけどここらへんが特に面白かったし改めて自分の中で思ってた事が言語化されたなと思った。